EBMに基づく尿失禁診療ガイドライン
I 尿失禁診療ガイドラインの概要 |
3. 尿失禁の診療ガイドライン作成の歴史
尿失禁に対する診療ガイドラインの動きについてみると、まず1888年に行政とは独立した形態でNIH(National Health Institute)が尿失禁の専門家を集めてパネルを開催し、その意見を集約したものとして「urinary incontinence in adult」が作成された。次いで1989年にアメリカの保健社会福祉省の事業分野として設立されたAHCPR(the Agency for Health Care Policy and Research、後にthe Agency for Healthcare Research and Quality)において、American Medical Directors Associationを中心に科学的なエビデンスを求めて膨大な系統的な論文評価が行われ、1992年にClinical Practice Guideline No.2「Urinary Incontinence in Adults: Acute and Chronic Management」が刊行され、その後1996年に改訂版が発刊されている3)。このガイドラインの対象は高齢者で、長期療養型もしくは介護施設の老人に焦点が当てられ、ユーザーとしてはプライマリ・ケアを行う医師や看護師および介護者を目標に作成されている。この改訂版は詳細な診療ガイドラインに加えて、日常診療向けの簡便な一般医家向けのQuick Reference Guide for Clinicians や一般国民向けのものも併せて、インターネットを通じてNational Guideline Clearinghouse から広く公開されており4)、発刊後も広く内・外部からの点検・評価を受ける確認作業が2001年に行われ、表2に示すEBMに基づく診療ガイドライン作成の公式どおりの手順をすべてふまえたものになっている。なお、このAHCPRが作成したすべての診療ガイドラインはHSTAT(Health Services Technology Assessment Text)と呼ばれ、米国立医学図書館から無料でダウンロードすることができる5)。
表2 EBMに基づく診療ガイドライン作成の手順 | ||||||||||||||||||||||
|
EBMに基づく診療ガイドラインを作成するには、その根拠となる科学的なエビデンスの積み重ねが基礎となる。尿失禁に関する治療は、行動療法や骨盤底筋訓練法、バイオフィードバックなどの下部尿路リハビリテーションや、抗コリン薬をはじめとする薬物治療、さらに前腟壁形成術や恥骨後式膀胱頸部挙上術や経腟式膀胱頸部挙上術に代表される外科的治療などが行われ、個々の治療法についてその適応や長期成績が報告されているが、その有用性の検証に無作為比較試験(RCT)の手法を用いた臨床研究は、欧米においても他領域疾患に比較すると少ないといわざるを得ない。尿失禁は効果的に治療できるというエビデンスはあるが、最も効果的で対費用効果のよい治療法がなんであるかは明らかになっていない。近年、抗コリン薬などの新しい薬剤や腹圧失禁に対する種々のデバイスが開発され、これらの臨床応用を通じてRCTが行われているが、Cochrane Libraryをはじめとするsystematic reviewsに収載される尿失禁の臨床研究は、いまだ多くないのが現状である。また、AHCPRによる尿失禁診療ガイドラインはプライマリ・ケアを主とする家庭医や看護師を対象としたことから、その内容は包括的な介護医療の傾向が強く、尿失禁に対する外科的治療についての詳細な分析がなされていなかった。このことから、米国泌尿器科学会は、1996年に泌尿器科専門医と泌尿婦人科専門医からなるパネルを設置し、「女性の腹圧性尿失禁に対する外科治療に関するガイドライン」ならびに、患者向けの冊子とともに1997年に刊行し6)、その要旨をJournal of Urology(1997)に記載している7)。
同じく尿失禁の診療ガイドライン作成における重要な役割を果たしているものに、1997年にWHO後援のもと、ICUD(International Consultation on Urologic Disease)がモナコで開催した1st International consultation on Incontinence(国際尿失禁会議)がある。国際尿禁制学会(ICS)の主な会員を中心に、多くの尿失禁の専門家を集めたパネルで、婦人のみならず、小児、男性、高齢者および神経障害者までにわたる種々の尿失禁を対象として、各パネル参加者からのデータに加え、EBMに基づくガイドライン作成手法に準じて膨大な論文探索を行い、その成果をまとめている。その内容をみると、エビデンスのレベルと推奨の段階を定めたうえで、(1) 下部尿路の解剖・細胞生物学、(2) 神経生理と神経薬理学、(3) 尿失禁の疫学と自然史、(4) 病理・生理学、(5) 骨盤臓器脱、(6) 症状とQOLの評価、(7) 尿水力学的診断法、(8) その他の診断法、(9) 尿失禁の薬物治療、(10) 保存的治療、(11) 外科的治療、(12) 開発国における尿失禁 : 出産時尿瘻形成、(13) 尿失禁ケアへの啓発・教育・組織、(14) 失禁に関わる経済学、(15) 糞便失禁、(16) 尿失禁の研究方法、の16章で構成され、最後にこれらを取りまとめたInternational Scientific Committeeからの推奨に終わる尿失禁に関するすべてを網羅した成書で、まさに尿失禁に関するエビデンス集といえる8)。また、この成果の一部を基にEuropean Association of Urologyが「Guidelines on Incontinence」を1999年に発刊している。その後、2001年に第2回会議が開催され、2002年に第2版が刊行されており、その全文はICSのホームページからもダウンロードできる9)。近年の尿失禁に関する種々の治療法の進歩と臨床研究の発展はめざましく、改訂のための第3回会議が2004年に予定されている。
これらとは別に各国においてそれぞれの国状に合わせた尿失禁診療ガイドラインの作成が試みられている。英国においてはNHS(National Health Service)がエビデンスに基づく医療行為と医療政策の推進を目指し、2つのガイドライン作成を進めている。地域格差のない医療サービスの実現のために、1993年にスコットランドにおけるガイドライン作成のための大学共同プロジェクトであるSIGN(The Scottish Intercollegiate Guidelines Network)が設立され、尿失禁に関してはManagement of Urinary Incontinence in Primary Care: A national clinical guidelineの最終版10)が現在レビュー中であり、2004年に完成が予定されている。一方、有用性と費用効果の面から適正医療の実現を目的とする国立審査機関であるNICE(The National Institute for Clinical Excellence)は、これらの目的に沿った国策的な診療ガイドラインを作成・普及する目的から、Incontinence : the management of urinary incontinence and prolapse of the womb の作成に着手し11)、2006年に完成を目指しており、両者の内容にどのような差異がみられるか興味深い。
他にはカナダではThe Canadian Continence Foundation(http://www.continence-fdn.ca)による成人の非入所者の尿禁制ケアを対象としたClinical Practice Guidelines for Adults12) がカナダ医師会で公認されており、また、フィンランド医師会は独自にUrinary incontinence in women(National Guideline clearinghouse より引用)を作成している。また、看護師の立場で、テキサス大学看護学科からRecommendation for the management of stress and urge urinary incontinence in women や、アイオワ大学老人看護介入研究センターからPrompted voiding for persons with urinary incontinence が、また米国のAWHONN(Association of Women's Health, Obstetric, and Neonatal Nurses)からはEvidence-based clinical practice guideline : Continence for women などが作成されている。これらの英文で作成された公認を受けたガイドラインはNational Guideline Clearinghouse から全文がダウンロードできるとともに、それぞれのガイドラインを比較した要約一覧も参照が可能である4)。