(旧版)EBMに基づく 胃潰瘍診療ガイドライン 第2版 -H. pylori二次除菌保険適用対応-
第2版の序 |
山下病院名誉院長
中澤 三郎
日本の医療を省みる時,従来は医師個人の知識,技術,経験などが重視されてきたため,個人差,地域差,年齢差が大きく,やや客観性や普遍性に乏しく,また患者側の状況や意向を十分取り入れたものとは必ずしもいえなかった。加えて急速に発展しつつある今日の高度医療や厳しい医療財政に対応するためには,このまま放置することは許されない状況に立ち至っている。さらに,医療に対する意識の高まり,敏速な情報伝達,医療経済上の問題や社会的要請などから医療の向上,標準化,経済性などが求められてきた。
こうした現象は世界的なもので,1つの治療法がより科学的,客観的に行われる必要性から,アメリカ,英国などからevidence-based medicine(EBM)が提唱されてきた。これを受けてわが国でも早速EBMの実施に向けて検討が開始された。
厚生省1)では医療資源を効率的に活用し医療の質と患者サービスを向上させる手段としての医療技術評価が「医療技術評価の在り方に関する検討会」で検討され平成9年6月に報告された。次いで平成10年6月に「医療技術評価推進検討会」が設置され,根拠に基づく医療(EBM)の検討,普及,推進などの方策として診療ガイドライン策定の検討がなされ,平成11年3月に報告書が公表された。この診療ガイドラインは医師が日常診療で即座に参考とすることができ,EBMの実践に役立てることができるものである。この検討会では対象疾患の優先順位を決める基準項目として,健康改善,患者数,費用対効果,標準化を選び検討した結果,第1位に本態性高血圧を,第9位に胃潰瘍をあげた。
これを受けて菅野健太郎教授が委員長となり,胃潰瘍の診療ガイドライン作成に取りかかった。胃潰瘍発生,病態については従来から種々の理論があるものの,胃酸,ペプシンなどの胃粘膜に対する攻撃因子と胃粘液,血流などの防御因子からなるバランス説が支配的であり,治療的にもこの理論に即して実施されてきた。しかし,1972年にJ. W. Blackがヒスタミン受容体拮抗薬を開発し,次いで1976年にG.Sachsがプロトンポンプを証明して以来胃潰瘍の治療法は一変した。加えて,1983年Robin WarrenとBarry MarshallらによってHelicobacter pylori (H. pylori )が発見されたことから,胃潰瘍の発生説,病態,診断法や治療法はまったく一新した。H. pylori に対する除菌療法も,すでに臨床的に広く行われているが,除菌の基本的治療法,除菌不成功例の対策,除菌適応のない例の治療法などや,さらには,高齢時代になってNSAIDの使用の増加とともに胃潰瘍や胃出血などの増加などに対する対策など統一的な治療法の確立が望まれている現在,本書が世に出ることは正に時宜を得たものといえよう。さらに今回は文献検索を十分に行った,客観的にみて確実な根拠に基づいた治療法を目指したガイドラインが作成された。すなわちEBMに基づいた胃潰瘍診療ガイドラインである。
EBMはevidence-based medicineの略語で根拠に基づく医療と訳される。1991年カナダのマクスター大学のG. H. Guyatt2)が最初に使用し,その後D. L. Sackettら3)のワーキンググループがEBMの概念を整理展開したといわれる。
報告書に従って述べると,EBMは,



しかし,従来の医療をした立場からみると,






これに加えて,さらに患者側の意向が反映されることになるが,臨床の場で判断しなければならない要素としてMulrowら5)はエビデンスとして患者の検査成績,RCT,疫学的知見などを,社会的制約として保険適応,法律などを,患者,医師の因子として個人的価値観,文化,経験,教育などをあげ,これらから医療知識,倫理およびガイドラインが構成され,さらにこれらを総合して臨床判断がなされるという。
このように医師の裁量権は十分に保証されており,正確な医学的根拠よって判断され,実際の診療に際しては個々の医療に対し柔軟に対応でき,また個人の意志も考慮され,医療費もより適切に使用されるので誰でもどこでも同様な医療水準で治療を受けられる点が大いに活用されるべきものと考えられる。菅野健太郎6)は診療ガイドラインは多忙な日常臨床に携わる臨床医のために,最新の文献的エビデンスの収集とその評価を専門家が行い,それに基づいて簡便な診療指針を作成し,診療の助けにするために作成されるものであると述べている。しかし,EBMに基づいた診療ガイドラインがすべての患者に適応されるべきというのではなく,最近,医療の現場で医療の標準化を目指して普及,発展してきたクリニカルパスもエビデンスに基づいて実施されるが,岩崎榮7)の言葉を借りると,エビデンスは平均値に近い患者群にはよく当てはまる。しかしひとり一人の患者について,平均値からどれほどずれているか,患者や家族が特有の価値観や意向をもっていないかなどによって,エビデンスを適用すべきでない患者が数多くいても当然であると述べている。ここにはパスを実際に使用する際にある程度の幅,すなわちallowanceをもつことが必要であるという。また桑間雄一郎8)は,ニューヨークのメディカルセンターの外来クリニックでのエピソードを紹介しながら,EBMが医療現場にもたらした現象について,EBMが医療のマニュアル化を強め,クックブックメディシンに陥る傾向がでてきたことを述べている。確かに頑なにガイドラインに固執するあまり,患者の個別性が埋没する可能性のあることを警告している。
やはり,実際の診療に当たってはEBMの最終段階において常に医師の経験,知識,技量などと同時に患者側の個人的,社会的,経済的状況や患者自身の意向をくみ取って診療に当たる柔軟なガイドラインの活用が最も重要である。すなわちすでに各方面から指摘されているように,大多数の症例に対しては大変参考になるがすべてをそのまま適応するだけでは不十分で,各患者の特性に沿うように柔軟性をもった利用が求められる。EBMとは“入手可能な範囲で最も信頼できる根拠,すなわちエビデンスを把握した上で,個々の患者に特有の臨床状況と価値観を考慮した医療を行うための一連の行動指針”とされる9)。EBMの本質を見事に表現しているものと考えられる。
本診療ガイドラインは経験豊富な消化器病専門医の綿密な計画のもとに作成されたもので,胃潰瘍の診療ガイドラインとして最適であると考えられる。初版が2003年4月に発刊されて以来,消化器病専門医のみならず一般臨床医にも広く活用されてきた。しかし,その後に新しく解明された研究や発表された文献などもあり,また,多数例に実施されてきた過程で追加や変更する箇所がでてきたので,今回,新たな執筆者を加え再吟味した上で第2版として発刊されることになった。初版と比べ,さらに理解しやすく実際に即したもので,より利用しやすくなったといえよう。初版と同様に多数の方々に幅広く活用されるものと期待している。
平成19年3月
参考文献
1) | 高久史麿:厚生省健康政策局研究開発振興課医療技術情報推進室 監修:わかりやすいEBM講座.厚生科学研究所 医療技術評価推進検討会報告書,pp.8-28,2000 |
2) | Guyatt GH: Evidence-based medicine. ACP Journal Club, 114:A-16,1991 |
3) | Evidence-Based medicine Working Group: Evidence-based medicine. A new approach to teaching the practice of medicine. JAMA, 268:2420-5,1992 |
4) | 桑間雄一郎:EBMは医師の裁量権を侵害するものであるという誤解.EBMジャーナル,1(1):24-7,1999 |
5) | Mulrow CD, Cook DJ, Davidoff F: Systematic reviews: critical links in the great chain of evidence. Ann Intern Med, 126(5):389-91,1997 |
6) | 菅野健太郎:消化器薬物治療における診療ガイドラインの作成.EBMジャーナル,3(5):592-7,2002 |
7) | 岩崎榮:クリニカルパスにおける医療の標準化とEBM;エビデンスに基づくクリニカルパス,医学書院,p.1-2, 2000 |
8) | 桑間雄一郎:米国におけるEBMの功罪.EBMジャーナル,3(3):329,2002 |
9) | 福井次矢,厚生省健康政策局研究開発振興課医療技術情報推進室 監修:EBMの提唱するものとわが国の現状.わかりやすいEBM講座,厚生科学研究所,pp.47-76, 2000 |